こんにちは! 物書きの忍者です!
今回は、イギリスの哲学者ヒュームの唱えた『懐疑論』について紹介します。
みなさんは『懐疑論』という言葉を聞いたことはありますか?
私の勝手な解釈ですが、殆どの方は聞いたことが無いと思っています。
この『懐疑論』をものすごく簡単に説明すると、『全てを疑う』という哲学の考え方を指しています。
「それ、前のデカルトの話と似てない?」と感じた方がいるかもしれません。確かに、『全てを疑う』という方法はデカルトと同じように思えます。ただ、同じ考え方でも、二人のたどり着いた結論は違います。
これから、その違いについて説明していきます。
「我思う、故に我あり」の『我』は経験によって作られた?
結論を先に言ってしまうと、ヒュームは私達の信じている事というのは、全て私達それぞれの過去の経験に基づくものであると考えました。
少し復習としてデカルトの「我思う、故に我あり」の説明をすると『たとえ全てを疑うことが出来ても、それを疑っているという自分が存在することは疑いようがない』という意味でした。
これはデカルトが全てを疑った末に辿り着いた真理でしたが、正直な話「で? それがどうかしたの?」と考えた方もいたと思います。
そもそも、デカルトが求めていたのは哲学の基礎になるような『絶対的に正しいもの』を見つけることで、その真理から哲学を生み出すことが重要でした。
なので、デカルトは「我思う、故に我あり」という真理から考えたわけですが、みなさんはどうなったと思いますか?
少し砕けた言い方をすると「我が存在するのは疑いようはないんだし、我の認識したものも全て存在すんじゃね?」という考えに至りました。ようするに、全肯定したわけです。
言い方は悪いですが「おい! 前までメッチャ否定してたじゃん!」とツッコミたくなるほどの変わり身の早さです。
そんな感じでデカルトの考え方に疑問を持ち、彼の活躍した時代の後、18世紀ごろに現れた哲学者たちの一人がヒュームです。
ヒュームの支持したのは『イギリス経験論』と呼ばれるもので、『人間の浮かべる知識や観念は、全て過去の経験から来ている』という思想です。
もう少しわかりやすく言うと、例えば私達が実際に見たこともない『ドラゴン』という生物を想像できるのは、本で見聞きしたという過去の経験によってできるようになったもので、この世界に『ドラゴン』が実在しないように現実と一致するわけではないと考えました。
そしてヒュームは「我思う、故に我あり」にある『我』というのは、その人が過去に経験してきたことを基に作られていて、痛みなどの感覚から判断しているために『絶対的に正しいもの』とは言い切れないと考えたわけです。
最後、『神』や『科学』を全て疑う
『全てを疑う』という方法で「我思う、故に我あり」という考えに至ったデカルト。
ヒュームは彼と少し違い『イギリス経験論』から考え始めました。ようするに『私達の持つ全ての概念や認識は経験を由来にしているので、その経験と現実が一致している保証はどこにもない』という懐疑の視線を全てに向けたわけです。
もう少しわかりやすく言うと、「それ、あなたの思い込みじゃない?」という視点を持ったわけです。その結果、ヒュームは『神』や『科学』といったものにまで疑いを持ちました。
具体的に言うと、例えば『氷は冷たい』という科学的に正しい考え方があったとします。
しかしヒュームは、その考えた理由は近づいたり、実際に触ったりして冷たいという経験を繰り返したために『氷は冷たい』と考えるようになったと説きました。
そして、本当は目に見えない別の現象のせいで『氷は冷たい』と感じているだけで、その現象が無くなれば『氷は冷たくなくなる』かもしれないと言ったわけです。
さいご
今回は、イギリスの哲学者ヒュームの唱えた『懐疑論』について紹介しました。
まとめると、
- 「我思う、故に我あり」の『我』は経験によって作られた?
- 最後、『神』や『科学』を全て疑う
ネット環境の発達した今では、あらゆる情報が簡単に手に入ります。だからこそ、その情報は正しいのかという疑いを持つことが大事です。
ヒュームのように『全てを疑う』という必要はないかもしれませんが、私達も気を付けてみましょう。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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