デカルトの「我思う、ゆえに我あり」

哲学

こんにちは! 物書きの忍者です!

今回は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」について紹介します。

みなさんは、デカルトという名前を聞いたことはありますか?

正直、デカルトと聞いてもピンとこない人の方が多いかもしれません。しかし、彼の言った「我思う、ゆえに我あり」という言葉を聞いたことのある方は多いと思います。

ここでは、哲学者デカルトの言葉「我思う、ゆえに我あり」について紹介していきます。

デカルトの「我思う、ゆえに我あり」

まず初めに、デカルトというのはどういった人物なのでしょうか?

デカルトは『近代哲学の父』とも呼ばれている人で、1596~1650年に活躍していました。

その時代、重要になってくるのは「キリスト教」という大きな宗教組織の存在で、それまで哲学においては「真理を知りたければ神に祈りを捧げるのです!」みたいな考え方が主流で、「真理」と「信仰」が結びつけられることになっていました。

しかし、そこから少し時が進むと、人類は「ルネサンス」や「宗教改革」による大きな転換を迎えます。そして、哲学の世界においても少なくない影響が起きて、それまでの「信仰」などといったことは忘れ去られ、再び哲学者たちは「理性」によって「真理」を探究しようと動き始めます。

そんな中で頭角を現したのが哲学者デカルトです。

彼は、哲学者というだけでなくて数学者という肩書も持っており、その数学者としての観点から「三角形の内角の和はかならず180度になる」といった公理のように、『誰もが絶対に正しいと認めざるを得ない命題』を見つけることが『真理』に近づくことだと考えます。

そこで少し考えてみてほしいのですが、その『誰もが絶対に正しいと認めざるを得ない命題』はどうやったら見つけられると思いますか?

デカルトは、その答えを見つけるための方法として、あらゆる物事をとことん疑うという手段を取りました。そして、疑って疑って、さらに疑っても疑いきれないものが出てきた時、それこそ追い求めていた命題になるのではないかと、デカルトは考えました。

正直、嫌な言い方かもしれませんけど、これだけ聞くと「こいつ馬鹿じゃねぇの?」と思うかもしれません。しかし、そんな彼の突飛な行動は実を結び、ある一つの答えを導き出します。

それこそが誰もが目にしたことのある有名な言葉、『我思う、ゆえに我あり』です。

それで、結局のところ、この『我思う、ゆえに我あり』というのはどういった意味なのかというと、ざっくり言ってしまうと「この世のあらゆることを疑うことができたとしても、この世に『疑っている私』が存在していることは疑いようがない」という意味になります。

どういうことかと言いますと、例えば食事をしている時、変な話かもしれませんけど、自分が「本当に食事をしているのか?」を完全に証明することは困難です。なぜなら、もしかすると自分はとなる実験室のベットに寝かされていて、脳に食事をしているという誤認をさせる装置を付けられて、現実と見紛うほどの幻覚を見せられている可能性もあるからです。

これは極論かもしれませんけど、そういった理由から、疑おうと思えば、どんな物事でも疑うことができ、完全に証明することなどできません。

そんな中でデカルトが見つけたのは、何かを疑っている時に『疑っている私』というのは必ず存在しているという事実です。仮に、その『疑っている私』を疑ったとしても、その瞬間、そこに『疑っている私』がいることを認めることになります。

こうしてデカルトは、一見すると馬鹿っぽい「すべてを疑う」という行動から、求めていた『真理』に近づくための公理、『誰もが絶対に正しいと認めざるを得ない命題』を見つけたのです。

さいご

今回は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり」について紹介しました。

まとめると、

  • 『我思う、ゆえに我あり』というのはどういった意味なのかというと、ざっくり言ってしまうと「この世のあらゆることを疑うことができたとしても、この世に『疑っている私』が存在していることは疑いようがない」という意味
  • デカルトは、その数学者としての観点から「三角形の内角の和はかならず180度になる」といった公理のように、『誰もが絶対に正しいと認めざるを得ない命題』を見つけることが『真理』に近づくと考え、そして導き出した答えこそ『我思う、ゆえに我あり

最後までお読み頂きありがとうございました。

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