こんにちは! 物書きの忍者です!
今回は、応援することよって発生する責任について考えてみたいと思います。
みなさんは、誰かを応援したことはありますか?
学校での行事やスポーツ観戦、最近だと箱根駅伝など、人が頑張っている姿を見る機会の多い中で、誰かを応援をした経験のない方はいない筈です。
一見、良い事のように思える応援という行為ですけど、そこには私たちの気付かないうちに、意外な責任が発生しているのです。
ここでは、そんな応援することよって発生する責任について考えていきます。
応援することよって発生する責任
先に結論から述べますと、応援することよって発生する責任とは『自覚なく挑戦者を追い込んでしまう』ことです。
もう少し具体的に言うと、私たちが何気なくしている応援という行為には、応援されている側の人にプレッシャーを与えながら、途中でやめてしまうといった、傍から後ろ向きに見られる選択肢を取れなくさせてしまうのです。
まず初めに誤解のないよう言っておきますけど、誰かを応援するという行為自体は素晴らしいモノですし、個人的にも多くの人たちが頑張っている人を応援し続けてほしいと思っています。
ここで言いたいのは、そんな良いと思える事にも、悪い一面は存在しているのだという話です。
だからこそ、漠然とした認識から「これは善意でやってるんだから、何をしてもいいんだ!」みたいな間違いを起こさないよう、本当の意味で頑張っている人を応援していくためにも、知っておいてほしいのです。
そもそもの話ですけど、応援することで発生するのは、本当に良い事だけなのでしょうか?
もちろん、それがあるからこそ応援されている側の人たちは、より一層頑張ることが出来るわけですけど、何事にもメリットとデメリットがありますし、客観的に見るとメリットしかないというのは疑問に感じる筈です。
ぶっちゃけてしまうと、応援にもデメリットは存在していて、簡単に言ってしまうと『プレッシャー』のことです。
期待というのは、頑張っている人たちに勇気をくれますけど、同時に「失敗したらどうしよう」といった不安を与えてしまい、普段通りに行動できなくさせてしまったりします。とはいえ、『プレッシャー』は良い結果を出すためにも必要になるモノですし、これだけだと大した問題にはならないかもしれません。
そこで、何よりも重要になるのは『正常な選択をできなくさせる』という副次的な効果の方です。
どういうことかと言いますと、応援をしている私たちは「高齢になっても現役で頑張っている!」のように、無意識に結果などに関係なく、ただ努力し続けている姿だけを見て「もっと頑張れ!」と無茶な期待をかけてしまうことがあるのです。
ここで少しだけ考えて見えほしいんですけど、先程の「高齢になっても現役で頑張っている!」という人の姿を想像してみてください。正直な話、それって良い事なんでしょうか?
スポーツでは年を重ねるごとに、どうしてもパフォーマンスが下がってきてしまいます。そこで無理をしてしまえば、故障してしまう可能性もありますし、何より、その人は引退した後、他にやりたいことが見つけられるのでしょうか。
それに、若者ですら仕事を見つけられない現代社会で、社会人として何のスキルも持たない高齢になった体で出来る仕事が見つけられるか疑問です。
嫌な言い方になってしまいましたけど、ようするに何が言いたいかというと「高齢になっても現役で頑張っている!」ことが必ずしも正しい選択というわけではなくて、応援という行為によるプレッシャーは、そうした判断を応援されている側にさせなくしてしまっている可能性があるのです。
何度も言うように、個人的にも、誰かを応援するという行為は素晴らしいモノだと思っています。だからこそ、それが頑張っている人たちに『正常な選択をできなくさせる』ようにしていないか、『自覚なく挑戦者を追い込んでしまう』事態に陥らせていないかを、頭の片隅にでも常においておきましょう。
さいご
今回は、応援することよって発生する責任について考えてみました。
まとめると、
- 応援することよって発生する責任とは『自覚なく挑戦者を追い込んでしまう』こと
- 私たちが何気なくしている応援という行為には、応援されている側の人にプレッシャーを与えながら、途中でやめてしまうといった、傍から後ろ向きに見られる選択肢を取れなくさせてしまう
最後までお読み頂きありがとうございました。
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