こんにちは! 物書きの忍者です!
今回は、哲学者ルネ・デカルトの残した言葉「我思う、故に我あり」について考えてみます。
みなさんはこの「我思う、故に我あり」という言葉を聞いたことはありますか?
- 生まれてはじめて聞いた
- 学校で昔習った気がする
- 何となく聞いた記憶はある
私の個人的な意見ですが、聞いたことのない方もいるかもしれませんが、大半の方は見聞きしたことがあると思っています。それほど有名な言葉です。
この言葉は『近代哲学の父』とも呼ばれているデカルトの著書『方法序説』に記されていたもので、他の著書にも似た表現が出てきます。
そんな誰もが聞いたことのある言葉ですが、その意味をみなさんは知っていますか?
多分、知らない人の方が多い筈です。そこで、今回は「我思う、故に我あり」という有名な言葉について説明したいと思います。
疑い抜いた先にあった真理
最初に「我思う、故に我あり」という言葉の意味を簡単に言ってしまうと『たとえ全てを疑うことが出来ても、それを疑っているという自分が存在することは疑いようがない』という意味になります。
この説明を聞いて「はぁ?」と大半の方が言いたくなったと思います。確かに、書いた私でもこれだけだと意味が分かりません(汗)
ここで重要になってくるのが、この言葉を唱えていた哲学者『ルネ・デカルト』とはどんな人物であったかという事です。そもそも、どんな経緯でこんな訳の分からない言葉を言い始めたのでしょうか?
近代とも呼ばれる時代、デカルトの登場した17世紀ごろの哲学というのは「俺はこう思う!」といったそれぞれの主義や主張が飛び交い、ある意味で哲学者たちは自分勝手な考えを言い合う時代でした。
そんな中で、『デカルト座標』とも呼ばれているものを考え出せるほどに数学者の顔も持っていたデカルトは、その個人的な考えを通そうとする哲学の在り方に違和感を覚えます。
疑問に思ったデカルトは、数学者としての考え方から公理のように『絶対的に正しいもの』を基礎として答えを導き出すように、哲学でも『誰もが認めるような確実なもの』から結論を出せないかと考えます。
もう少しわかりやすく言うと、数学では『三角形の内角の和は180度になる』という定理があります。「こんなの誰でも知ってる常識だろ」と考える方もいるかもしれないこの数学の定理は『平行線は交わらない』のような基礎ともいえる、いくつかの公理によって成り立っています。
この『平行線は交わらない』のような絶対に正しい基礎的な部分を哲学の中からも見つけ、考え方の土台にしようとデカルトは考えたのです。
「なんとなくわかったけど、『絶対的に正しいもの』なんてどうやって見つけるんだ?」と疑問に思ったかもしれません。
デカルトはその方法として、『全てを疑う』という行動を取ることにしました。要するに、言い方は悪いですが、この世にある全てのものに対して難癖をつけたわけです。
例えば、目の前にリンゴがあったとします。普通なら「リンゴがあるな」と思うだけで終わります。しかしデカルトは、そんな現実さえ疑い「これは夢なんじゃないか?」とさえ考えました。
正直、そんな状態で『絶対的に正しいもの』が見つかるのか疑問に感じる筈です。
この方法を続けた結果、デカルトが辿り着いたのが「我思う、故に我あり」という言葉で、『たとえ全てを疑うことが出来ても、それを疑っているという自分が存在することは疑いようがない』という考えでした。
つまり「我思う、故に我あり」というのは、トコトン疑うことを突き詰めた先にあったデカルトの真理だったわけです。
さいご
今回は、哲学者ルネ・デカルトの残した言葉「我思う、故に我あり」について考えてみました。
まとめると、この言葉は『たとえ全てを疑うことが出来ても、それを疑っているという自分が存在することは疑いようがない』という意味で、デカルトが全てを疑い抜いた先にみつけた真理でした。
日本のことわざに『石橋を叩いて渡る』というものがあるように、みなさんも何かを始める時はそれに疑問を持ってみても良いかもしれません。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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