こんにちは! 物書きの忍者です!
今回は、相手にとって悪意以上に害になる善意について紹介します。
みなさんは、誰かに贈り物をしたことはありますか?
今迄に贈り物をしたことのある人というのは、意外と多い筈です。クリスマスやバレンタインなど、日本には相手に何かを贈る習慣が根付いています。
相手に贈り物をしたり、親切に接したりすることは良い事なのだと教えられてきましたし、当たり前のことだと思えます。
しかし、中にはそうした親切のつもりで行ったことが、逆に相手を困らせてしまうことがあります。
ここでは、ときに悪意よりも質の悪い、善意によって起きてしまう問題について紹介していきます。
相手にとって悪意以上に害になる善意?
まず「人に親切をすることが悪いのか?」と不満を持たれた方もいると思います。なので先に言っておきますと、別に『善意』を否定しているわけではありません。
ただ、私達の思っている『善意』には、相手の気持ちなんかを無視したちょっと身勝手な部分があるのではないかという話です。
前提として、そもそも『善意』という言葉を聞いて何を連想しますか?
- ボランティア
- 寄付や贈り物
- ちょっとした親切
定義は色々とあると思いますが、ここでいう『善意』とは『相手に何かをしてあげる行為』だと考えてください。それ自体は本当に良い事だと思います。
ただ、ここで問題にしているのは『相手に何かをしてあげる行為』の中に含まれている『した側』と『された側』の気持ちです。
例えばの話、被災地へ送られる物資について考えてみましょう。私達が被災地に住んでいた場合を想像してみてください。
ある時、少しでも元気になってもらおうという誰かのご厚意で、トラックの荷台に山済みされた大量の観賞用の花を贈られたとします。それ、素直に喜ぶことが出来るでしょうか?
たぶん、その状況にいたなら「そんな邪魔になるモノはいらないから、人手をよこせ!」と思ってしまうはずです。
ようするに、この『善意』において『した側』の考えばかりが優先されて、肝心の『された側』の気持ちがないがしろにされているという事です。不満に思うかもしれませんが、そういうこともあるのだと考えておきましょう。
考えのない身勝手な善意は害になる?
そうはいっても、被災地に物資を送るなどという行為自体は良い事のように思えます。
そこで、最初にはっきりと言いますけど、重要なのは『される側』の気持ちを考えるという事です。それがない『善意』はすべて無駄だと思っておきましょう。
例えば、先程の例で被災地に花を贈るという話を聞いて「大量じゃなくて、一本だけならいいんじゃない?」と考えた方は気をつけてください。その時、自分と同じように考えた人はいないかと少しでも考えましたか?
もしも、気付かずに安易な気持ちで一人が花を送ってしまえば、同じようなことをした人が寄り集まり、結局大量の花を送ってしまうことになるかもしれません。
もっと身近な問題として、誰かから贈り物をもらって、その扱いに困ったことはありませんか?
ここでは『贈り物』として表現していますけど、相手にされて逆に迷惑をこうむったという事は存在するはずです。
しかも、そういったことを『した側』は良い事をしていると思って行っているため、『された側』は文句を言うことはもちろん辛いですし、言えば「親切でしてやってるのに、何言ってんだよ?」と怒られるかもしれません。
つまり、『善意』というのが『した側』の自己満足になってしまう場合が存在しているわけです。
なので、自己満足にならない為にも『善意』を行う前には、『される側』の気持ちや立場、置かれている状況などあらゆるケースを想定して考えた後で行動に移しましょう。
さいご
今回は、相手にとって悪意以上に害になる善意について紹介しました。
要点をまとめると、
- 私達の思っている『善意』には、相手の気持ちなんかを無視したちょっと身勝手な部分が存在する
- 自己満足にならない為にも『善意』を行う前には、『される側』の気持ちや立場、置かれている状況などあらゆるケースを想定して考える必要がある
偉そうな言い方をして申し訳ありません。ただ何度も言いますけど、『相手に何かをしてあげる行為』そのものは素晴らしい事だと思います。しかし、それが自分達がいい気分になるだけの迷惑行為になっていないかを考えてみましょう。
最後までお読み頂きありがとうございました。
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